飛行場計画技術研究会 小坂英治
我が国の空港整備の歴史を振り返って見ると、民間航空は、スタートこそ大阪で始まったも]のの、初の国営民間航空用専用空港はやはり昭和6年の羽田開設が嚆矢である。以来、プロペラ機がジェット化し、さらには、機材が大型化し、広胴機化する中で、東京一極の国土経営もあって、羽田空港の整備拡充が常に空港整備問題の中心にあり、その実施の難しさ故に、日本の定期航空から小型航空機が実質的に排除され、この結果需要に関係無く地方空港存続のため滑走路の延長を余儀なくされた。 いわゆる地方空港の大型化・ジェット化対策である。この間、羽田空港から国際部分を成田に移してもその混雑は変らず、この度、Dランが整備されることによって初めて離発着能力にわずかばかりの余裕が生れることとなり、世を挙げて羽田空港に過度の期待がかけられる次第となったのである。まるで世の常の親が出来そこないのわが子に、自分が適わなかった夢全てを押し付けるの感がある。
羽田空港の隘路は滑走路の能力だけではない。現在の周辺道路は、例えば首都圏の幹線道路である湾岸道路が空港内を横切るが、有料部分に併設されている一般道路部分は多摩川を越えていないため、実質羽田空港がインターチェンジ機能を果たすことになっている。このままでは道路交通で空港機能は早晩行き詰るし、道路整備にしても都心では金も時間もかかり過ぎるのが実体である。 空港も同様で、現に羽田空港の場合、建設中のDランは滑走路の増設だけで、国の整備費用は批判の多い地方空港である神戸空港が10ヶ所以上も建設できる勘定になる。周辺道路にしてもおいそれとはタイミング良く整備できないのではなかろうか。
羽田空港に期待しすぎる世の風潮は東京一極の国土政策と同様極めて危うい未来を予告しているように思える。
昭和30年代後半、日本の経済活動が世界経済の中に歩を進めようとしたとき、国際空港の重要性が関係者の中で課題になってきた。羽田空港は、既に周辺地域との航空機騒音問題が発生しており、昭和38年4月にはジェット機の深夜早朝の離発着が原則禁止されている。このような時、羽田空港を拡張しようとすれば、その方向は東京湾の水面に向かわざるを得ないが、活発化しつつある我が国の経済活動の隘路はまず港湾施設の不足になって表れ、空港を拡張すべき海面は文字通り船舶で溢れ、東京港は入港した船舶を係留させる岸壁不足のため、滞船問題を起している最中であった。 昭和36年11月から滞船の状況が統計化されたほどで、昭和37年1年間の数値を見ると、東京港に着岸しようとした船舶の12パーセントがバース待ちし、 1隻あたりの平均待ち時間は36時間、前年12月一ヶ月間に限ると、21パーセントの船舶がバース待ちし、その平均待ち時間は94時間に及んだとある。困窮の中にいる港湾管理者・東京都をはじめとする港湾関係者が国際空港の将来を心配し、水面を空港拡張のために割譲してくれないのは明らかであり、当時、常に自信家であるマスコミにしてもそのような先見性を持つていたとは聞いたことがない。国際空港は当然の結果、羽田空港を離れて北総台地に行かざるをえなかったのである。
その後の我が国の航空需要の増大は凄まじく、これに対応して昭和45年頃からはワイドボディジェットが就航し、大量輸送時代の幕開けとなったが。羽田空港の離発着能力は限界に来ており、運輸省は、昭和44年8月には、小型機の乗り入れ規制を行い、将来にわたる国内空港の拠点空港として、本格的な羽田空港の長期計画作りに取り組んだのである。
すでに地元との航空機騒音の問題があり、拡張計画調査に入るや、時の都知事からの反対、地元区議会からの計画の撤回要求、さらには空港撤去要求がなされるなど苦難の道をたどることになるのである。しかしながら、最終的には、東京都民にとって何よりも放置できない問題である「ゴミ処理問題」が発生し、これと同時解決を図ることで、AランからCランに至る沖合展開事業計画として決着し、今日の羽田空港が出来上がるのである。 すなわち、ゴミで埋め立てた沖合い埋立地に滑走路等の空港機能を移転させることで、東京都にも、地元周辺区の追い出し要求にも対応できたのである。最終的に計画決定し、工事に着工できたのは、実に昭和59年1月になってからである。Cランの完成は平成9年であった。一方、沖合展開事業は地元の要求により、それでなくとも狭い空港に跡地と呼ぶ土地を区画して、空港用地を削減するような破目に陥っているのである。
一方、空港の立地条件の一つは、安定した地盤の確保である。マヨネーズ層とまで云われた超軟弱な埋立地上の空港造りは異常で、関西空港も同じことが云えるが、空港の建設技術は、工学として常に経済性が加味されなくてはならない。この点で羽田空港の沖合展開事業は、苦肉の策として工学理念を越えて実質無理やり造ったもので、未来永劫メンテナンスに苦労することになるし、現に、空港整備特会の今日の赤字の最大原因の一つであることは間違いない。 首都圏における空港造りは、コストがかかり過ぎる点で、公共事業である空港整備部門のみの問題として片付けられるテーマを遥かに超えていると考える。そして、今、羽田空港は再び、空港の管理と河川の管理は将来どう両立するのだろうかと云う問題を残しつつ、Dランと云う巨大プロジェクトが始まったのである。
羽田空港は、歴史的に見れば需要地に近いことだけが取り柄の空港だと思う。この利点は空港の存在上最も重要なものであるには違いないが、今後の羽田空港のあり方を考えると、どこまで他の欠点を補えるかがこれからの課題となる。
その第一は整備コストが高過ぎることとその負担である。一般に金を分担しないで済む者ほど無責任な要求をするものだが、羽田空港は従来から地元負担が無く、東京都も神奈川県も要求によって何ら痛みが生じないできた。さすがにDランでは制度外の負担がある様だが、空整特会100パーセントの仕組みは本質的に不健康と云わざるを得ない。権利があれば義務も生ずる。
その第二は空港が常に抱えている航空機騒音の被害者と何ら被害を伴わない受益者との調和である。初期のジェット機の騒音は確かに酷かったし、空港側の対策も十分でなかった。しかも空港の特性として、騒音被害者は空港近接地域に限定され、騒音を感じないで済む人々にとっても、かっては受益の程度は低く、空港そのものに無関心であった時期が長かった。この段階で起きた我が国各地の空港廃止運動、すなわち伊丹空港、福岡空港そして羽田空港の経験は、空港騒音問題を近接被害者と空港設置者のみの間で解決をせざるを得ない状況となって、未だにその習いを引きずっていることである。国の事業がえてして陥りやすい欠点だと思う。
其の第三は空港周辺のアクセス問題であり、背後圏道路網全体の問題である。首都圏内の道路網は、放射道路と圏央道、外環道、中央環状線の3本からなる環状線で骨格が出来ることになっているが、40年経ってもなお全体構造が出来上がっていない。成田空港問題と同根で、我が国の広域的インフラ整備が局部問題として処理され、容易に進まないのは民族の根底にある大局観が成立しない欠陥のなせる業ではないかと考えてしまう。羽田空港を首都圏全体を睨む空港とするならば、羽田空港からインターチェンジ機能を外し、空港と無関係な車はなんとしても空港から排除しなければならない。
其の第四は港湾機能との海面の取り合いである。一般に空港はエアサイド、カーブサイド共に広大な土地を必要とする。羽田空港は、滑走路をフルに生かそうとするならば、誘導路を機能的に配置しなければならないし、駐機場も余裕をもって整備する必要がある。そして拡張する先はやはり港湾区域海面の埋立しかない。Dランの埋立て高さが17メートルにもなったのも、港湾機能との関係であり、同じ水面を港湾と空港を同時に成立させることは、もはや不可能となっていることを世間は知るべきである。
そして、最後の問題は我が国の存立の問題である。国の根幹機能全てを東京に置き、国として必要な空港機能全てを羽田空港のみに期待しようとすることを世間はどうして許すのだろうか。空整特会だけからしても経営的に破綻するほど金がかかるし、繰り返して云えば、世間は、空港機能を支える最大要素の一つである道路整備問題すら話題にしないではないか。
東京主義とも云える我が国の一極主義と羽田空港のみに頼ろうとする首都空港のあり方にフェイルセーフの考えを是非ともとり入れて貰いたいものである。