客員研究員 大本俊彦(京都大学経営管理大学院 特命教授)
初めに
建設契約は他の売買、賃貸、ローンなどの契約と比べて非常に不確定な要素が多い。このため契約履行中に契約時には予想できなかったことが生じることも少なくない。それでも工事を続けるため設計の変更や追加工事が必要になってくる。或いは契約後に税法などの法律が変わることもある。結果として工事費が増大したり、工期が長引いたりすることになる。このときの追加費用や工期遅延の責任が発注者にあるのか、コントラクターにあるのかを争って契約紛争が生じることになるのである。
これから数回にわたり、上述のような建設契約の特異性、この特異性に基づく契約紛争の発生、契約紛争の解決や予防の方法等を概観する。特に国際工事に関与する方々に少しでも参考になれば筆者の喜びとするところです。
建設工事は一般に規模が大きく複雑で、契約図書の数も量も膨大となり、図面、仕様書、契約条件書等、全ての内容に整合性を持たせることは、不可能でないにしても多大な時間と費用がかかる。ある一定の時間と予算のもとで契約図書を完成するためには、完全な整合性は犠牲にならざるを得ない。また建設工事には地質条件、自然条件、設計変更、工事範囲の変更、法律の改廃等、多様な不確定要因がある。これらは契約当事者にとって予見できないリスクであり、その全てを制御することは不可能である。また、これらのリスクより生じる全ての状況を契約の中に記述することは不可能である。このような特異性により建設契約は不完備契約とならざるを得ない。不完備契約の特徴は、契約履行時に、その不完備な部分を契約当事者が交渉しながら補っていくことを予定していることである。つまり、契約変更の再交渉が元々予定されている。
上記のような不完備性を補い契約の履行を可能にするために、リスク分担のルールと変更のルールを明確にしておくことが必要であり、これらのルールによって契約変更を効率的に行うことが可能になる。しかしながら、なおこれらのルールを規定する契約条件の解釈を巡って契約当事者間に意見の相違が生じることがしばしば起り、紛争に発展することもまれではない。そのために、建設契約では紛争解決に関するルールが売買契約等とは異なり、詳細に記述されている。
建設契約には上述の建設契約の特異性で述べた不確定性の原因となる以下のようなリスク・カテゴリーがある。
a) 政治的リスク:上位計画リスク(政権交代や政策方針の転換により、当該事業の上位計画が変更され事業自体が存続の危機にさらされる)、法令リスク、税制リスク、許認可リスク等
b) 経済リスク:物価、金利、為替レート等の経済指標が変動するリスク。
c) 社会リスク:遺跡等の発見により工事が中断したり、計画変更を余儀なくされる学術的発見リスク、周辺住民による反対運動/訴訟リスク、用地取得リスク等
d) 不可抗力リスク:自然災害、戦争の勃発等
e) 契約リスク:想定外の地質に遭遇したり、設計図書に欠陥/不備があったり、工事内容を変更したりして、設計変更/追加工事が余儀なくされる等
これらのリスクが具体的事象として生じる場合、契約条件書で定められたルールに基づいて当事者がリスクの分担をする。しかしこのリスク分担に関し契約条件条項の解釈において意見の相違が生じ紛争に発展することもまれではない。
上記のようなリスクを外生的リスクと呼ぶが、建設契約にはモラル・ハザード、ホールド・アップ問題と呼ぶ内生的リスクもあるが、紙面の都合上、別の機会に説明する。
上で述べたように建設契約(土木・建築・プラント等)にはリスク分担ルール、変更ルール、紛争解決ルールが備わっていなければならないが、個々の契約ごとに複雑かつ多岐に亘る契約条件を一からドラフトすることは非常に時間とコストが掛る。また、標準契約約款が繰り返し用いられることによって、その各条項の解釈が定着し、運用しやすくなる。このような理由で建設工事は標準契約約款を用いて行われることが多い。建設契約の特徴の一つは、プロジェクトを完成させるために必要な工事の変更や追加を指示する権限が発注者にあることである。そのような指示が出されたり、契約時には予想できなかった事象の発生、例えばトンネル工事において予想よりも軟弱な地層に遭遇し、計画より重く頑丈な支保工を設置しなければならなくなったり、道路工事において土地収用が部分的に遅れ施工順序を変更せざるを得なかったり、工事に遅延が生じたりすることがよくある。このように契約時に想定されなかった事象が起った場合にも請負者は工事の完成責任を持つ。追加や変更に伴う工事金額の増加や、工期の延長に関して、発注者或いは発注者の代理人と請負者が協議し、合意に達すれば問題はないが、意見が相違する場合が頻繁に起こる。さまざまな標準契約約款において、最終的な法的紛争解決は仲裁と規定されていることが一般的であるが、この意見の相違が正式な紛争となり仲裁に付託されるまでには数次の手続きが用意されており、それらによってなお解決をみない場合のみ仲裁に付託することができる。この階層的紛争解決システムをMulti-tier Dispute Resolutionと呼ぶことがある。
公共工事には公共工事標準請負契約約款、民間の主に建築工事には民間(旧四会)連合協定工事請負契約約款が用いられる。
(a) 公共工事標準請負契約約款
公共工事標準請負契約約款は中央建設業審議会※1)が作成し、国や地方自治体が発注する公共工事の契約に用いられる。本約款の下において、契約管理は発注者の監督員が行う。発注者と請負者に意見の相違があり、一定の期限内に合意が見られない(協議が整わない)場合は発注者が決定を下す。発注者とは契約に署名した当事者である国や県・市そのものである。この発注者の決定に受注者が不服を申し立てる場合に、単なる意見の相違が正式に紛争となるのである。この標準約款ではまず契約書に記載された(契約時に合意された)調停人がある場合には、その調停人のあっせん又は調停によりその解決を図るとされている。発注者及び請負者は調停人があっせん又は調停を打ち切った時或いはあらかじめ合意した調停人がない場合には、建設業法による建設工事紛争審査会※2)によるあっせん又は調停によりその解決を図る。それでもなお紛争が解決する見込みがない場合には、仲裁合意に基づき、審査会の仲裁※3)に付し、仲裁判断に服することになる。
(b) 民間(旧四会)連合協定工事請負契約約款
民間の建築工事では設計事務所やコンサルタントが発注者(甲)によって雇われ、管理者(丙)※4)となることが一般的である。管理者は設計や施工の技術的な側面からの監理を行い、かつ発注者のコスト管理の支援もする。
この約款の下では、工事の内容、工期また請負代金を変更する必要があると認められるときは、甲、乙および丙が協議して定めるとあるが、協議が整わない場合誰が、どのように暫定的に決定するかが規定されていない。実際には管理者(丙)の助言のもとに発注者が決定することになる。甲乙間に紛争が生じたときは両者の合意する第三者を選んで解決を依頼するか、建設工事紛争審査会のあっせん又は調停によってその解決を図る。これによって解決する見込みがないと認めたとき、或いは審査会があっせん又は調停御打ち切った時は、仲裁合意に基づいて審査会の仲裁に付することができると規定されている。
大がかりな石油関連プラント工事ではオイルメジャーやエンジニアリング企業が自前の標準※5)契約条件書を準備している。その他日本のエンジニアリング振興協会が作成した「ENAAモデルフォーム プロセス・プラント国際標準契約書」がある。これは世銀やJICAの融資プロジェクトに採用されている標準約款と呼ぶことができるが、その使用頻度は筆者の知る限り報告されていない。
もっとも多く使われている国際的な標準約款は国際コンサルティング・エンジニア連盟※6)が発行している土木・建築用標準契約約款(FIDIC Red Book)※7)である。これは世銀、アジア開発銀行、ヨーロッパ開発銀行などの多国間融資開発銀行(MDBs)※8)やJICA※9)の融資プロジェクトで使用することが義務付けられている。※10)この約款が最も一般的に使用されているのでFIDICに基づく紛争解決手続きを説明する。
FIDICの下では民間(旧四会)連合約款の監理者(丙)に似ているがもっと権限を与えられたエンジニア(The Engineer)が契約管理、工事監理を行う。エンジニアは工事の変更や追加指示を出すことができ、追加支払や工期の延長に関して決めることができる。発注者やエンジニアと請負者(コントラクター)の間で意見の相違があり、合意が成立しない場合はエンジニアが決定する(Determine)。この決定に発注者又はコントラクターが不服を申し立てたとき、1999年版までの旧版ではエンジニアが決定(Decision)を下す。1999年版以降では契約時から常設される一人又は3人の独立な第三者からなるディスピュート・ボード(DAB)※11)が決定する。これらエンジニアの決定(The Engineer’s Decision)、ディスピュート・ボードの決定(DAB’s Decision)は契約上当事者を拘束(binding)し、一定期間以内に当事者のどちらからも不服の申し立てがない場合、最終的(final)となる。不服の申し立てと仲裁へ付託する意思表明が行われて初めて仲裁を開始することができる。しかし意思表明から56日間は和解(Amicable Settlement)の努力期間として仲裁を始めることができない。
以上見てきたように国内、国際の建設工事契約約款の紛争解決手続きは以下のように多層的になっている。
これはすでに述べたように建設契約では紛争が生じ易いので、出来るだけ仲裁へ行く前に和解することを勧めているのであろう。
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※1)建設業法第34条に基づいて設置される審議会。公正な立場から、請負契約の当事者間の具体的な権利義務関係の内容を律するものとして標準請負契約約款を決定し、当事者にその採用を勧告することが定められている。
※2)建設業法に基づき国土交通省に中央建設工事紛争審査会、各都道府県に都道府県建設工事紛争審査会が設置されており、建設工事の請負契約に関する紛争の処理を行うとされている。あっせん、調停、仲裁が行われる。
※3)審査会の仲裁は登録された仲裁人によって行われる。これらの仲裁人個人は独立していて公正な人たちだと言っても、登録の審査・手続きや紛争審査会の運営監督を国が行っているので、仲裁そのものの中立・公正が担保されていないとする、特に外国企業、外国弁護士からの指摘がある。
※4)発注者を甲、請負者を乙、設計事務所やコンサルタントが行う監理者を丙と呼ぶ。
※5)「自前で標準」とは、石油関連企業の間で標準であるというのではなく、一回きりではなくプロジェクトごとに調整しながら、基本的に同じものを使うという意味である。
※6)Fédération Internationale des Ingénieurs-Conseils (FIDIC: International Federation of Consulting Engineers)
※7)Conditions of Contract for Construction for Building and Engineering Works designed by the Employer、表紙が赤いので、FIDIC Red Bookと呼ぶ。
※8)Multilateral Development Banks: African Development Bank (DBと略す), Asian DB, Black Sea Trade and DB, Caribbean DB, Council of Europe DB, European Bank for Reconstruction and Development, Inter-American DB, International Bank for Reconstruction and Development (The World Bank)
※9)Japan International Cooperation Agency: 国際協力機構
※10)正しくは後述するように、FIDIC Red Bookに基づいてMDBsように修正されたFIDIC Harmonised Editionが用いられる。
※11)Dispute Adjudication Board